「今日の聖句」 DailyBible.jp

今日も聖書の御言葉に生かされる一日となりますように

私たちのルーティーン

ラグビー・ワールドカップでの日本代表チームの活躍は目を見張るものでした。特に五郎丸選手の正確なキックは世界にも注目を与え、中でもキックの前に必ず行う「ルーティーン」の動作は誰しもが知るところとなりました。

五郎丸選手に限らず、試合前などにルーティーンを行うアスリートは数多くいるようです。彼らが大事な場面でルーティーンを行う理由は、精神統一して平常心を保ち、練習通りの理想的なフォームで体を動かせるようにするためのようです。

一見おまじないのようにも見えますが、大切なことは、いつも同じことを繰り返すことで、いつもと同じ結果を得るということではないかと思います。毎日激しい練習を積み重ね、体も技も鍛え上げた屈強な選手たちであっても、国際試合や大事な場面では、相当のプレッシャーがのしかかり、身体が縛り付けられたようになって思うように動かず、良い結果が得られないことが多々あるようです。それをはねのけるものが普段通りの動作、ルーティーンだというのです。

私たちにも日々の生活の中で大事な場面があり、あるいは重圧がのしかかるときや、絶体絶命の危機に瀕することもあります。そのようなときに普段からの積み重ね、ルーティーンがあるならば、緊張感や恐れから解放され、難なく乗り越えることができるのではないでしょうか。

スポーツでは日々の練習の積み重ねが必要なように、私たちクリスチャンにとっても普段からの霊的な生活の積み重ね、ルーティーンが大切です。それは祈りであり、御言葉に親しむことであり、礼拝であり、何よりも神様に寄り頼む信仰、救いの喜びで満たされた心です。

クリスチャンだからこうしなければならないとか、信仰深そうな態度を装うことは、自分で自分を縛り付けて心を硬くしてしまいます。キリストにある自由の中で、罪から解放された喜びに満たされた心を普段から保つこと、それが私たちのルーティーンではないかと思います。

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まったりとしてコクがあり…

かなり古い話ですが、私がまだ20代だった頃に流行った「美味しんぼ」というグルメ漫画で主人公がよく使っていた「まったりとしてコクがあり、それでいてしつこくなく」という有名な台詞があります。

初めてこの台詞を見たとき、「まったり」って一体どんな味なんだよ?などとよく突っ込みを入れていましたが、味を言葉だけで表現するというのは実に難しいもので、今でも食通レポートは最も表現力が試されると聞きます。

もし自分が誰かにおいしいものを伝えるとしたら、「口では説明しきれないからまず食べてみて」と言いたくなるほど、味覚とは実に深いもので、決して舌だけで感じるものではなく、香りや触感、色合い、見た目など、すべてが絶妙なバランスで組み合わされていて、人の感覚をフル回転させなければすべてを感じることができないものです。

今日の御言葉を黙想する内に、神様の恵みとは実に奥深いものであるということを学ばされました。絶品の料理に舌鼓を打つときのような姿勢で神様の恵みを感じ取り、全身全霊を傾けて聖書の御言葉を深く味わいたい、そのように思わされました。

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正しい人って何だろう?

今朝の御言葉を黙想する内に、「正しい人って何だろう?」という疑問がわいてきました。

善いことをする人が正しい人でしょうか?
その人は悪いことは一度もしていない人でしょうか?
善いことをした回数と悪いことをした回数を比較して正しい人かどうか判断するのでしょうか?
自分が正しいと思ってしたことは、他の人から見ても必ず正しいことでしょうか?
私たちは果たして正しい人なのでしょうか?

私たち人間の中には、絶対に正しい人などいないのです。なぜなら私たちは皆、罪人だからです。では今日の聖句にある正しい人とは、いったい誰のことなのでしょうか?

聖書が言う正しい人とは、義なる神様から正しいと認められた人のことです。正しいか正しくないかの判断基準は、罪人に過ぎない人間の中にではなく、絶対的な主権者、いと聖なる神様の中にあるのです。その神様から、もはやあなたの罪は認めないと、義とされた者こそが正しい人なのです。

では罪人に過ぎない私たちが神様から義と認めていただくにはどうすればよいのでしょうか? 神様は何を見て正しい人と判断されるのでしょうか?

それは、イエス・キリストの購いの十字架を信じ、自らの罪を心から悔い改め、過去の罪の生活を捨て、義なる神様を求め、聖書の御言葉を自らの基準として新しい人生を歩む人です。私たちは誰でも正しい人となるチャンスがあるのです。そしてそのような人と共に神様が歩んでくださいますから感謝です。

義なる神様から正しい人と認められ、全知全能の主が共に歩んでくださり、この小さな者の祈りをも聞き入れてくださる恵みと幸いに感謝しつつ、今日も神様と真っ直ぐな関係を保たせていただきたいと心から願います。

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主の祈りから学ぶこと

イエス様が「私たちに祈ることを教えてください」と尋ねて来た弟子たちにお答えになった言葉が「主の祈り」です。いわば「主の祈り」はお祈りのお手本です。

その主の祈りの中に、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という一節があります。イエス様が教えられたお祈りの最も基本的な要素の中に、世界のために祈ることが挙げられていることを忘れてはなりません。

私たちの祈りは、どうしても個人的、自分の身近な範囲に留まりやすく、信仰生活が長くなるほど、自分の教会や信仰の仲間たちとの交流関係が深くなり、視野が狭まりがちです。中には、クリスチャンは信仰の世界のことだけを思い、この世の政治活動などに手を染めるべきではないという考えを持つ人たちもいます。

しかし私たちがこの世に生きている限り、今の世界と隔絶された環境で生きてゆくことはできません。むしろ、クリスチャンは神様の栄光がこの世に現され御心に適う世界となるようにこの世に遣わされた者であって、世の喧噪と離れた山奥深くで霞を喰って生きてゆく仙人とは違うのです。

私たちクリスチャンは、世の光となってこの世に輝きを放つ者でありたいと願います。私たちが神様から授けられた福音の希望の灯火を、枡の下に置くようなことはするべきではありません。

ですから、もっとこの世のことに正しい心で関心を持ち、この世界のために祈りたいと思います。この世が神様の御心に適う世界となるように、神様を悲しませることが起こらないように、政治家や行政のためにも、国々や地域のためにも、世界の平和のためにも、真剣に祈り求めるクリスチャンでありたいと思います。

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相談相手を間違えていませんか?

テレビのバラエティ番組などで著名人が視聴者の人生相談をするコーナーがあります。そういった番組を見る度に、どうして見ず知らずの多くの人が見ている前で、自分の人生を赤裸々に告白して相談するのだろうか?と思ってしまいます。

何かに行き詰まったとき、誰かに相談を持ちかけたい気持ちは良くわかります。しかし信頼できる友人ならばともかく、自分とは何の接点もない人に相談するのでしょうか。

もちろん相談に乗る出演者は、ご自身の経験をふまえて親身になって答えていますが、あくまでも一般論であってその人の状況に最適な答えかどうかはわかりませんし、また相談した結果に責任は取ってくれません。

このように私たちは、大切なことを相談する相手を間違えてしまうことがままあります。

私たちが相談すべき相手は、私たちのことを誰よりもよく知っており、まだ見ぬ将来を見通し、結果に責任を取ってくださるお方ではないでしょうか。そのお方こそ天地万物を造り、世界の歴史を統べ治め、母の胎内にいるときから私たちのことを知っておられる神様です。

この神様が私たちに語り掛けてくださる聖書の御言葉と真摯に向き合うとき、そして御言葉を自分の都合の良いように解釈するのではなく、改めるべきことは悔い改め、過ちを正し、本来私たちが進むべき道を真剣に尋ね求めるならば、神様は私たちにとって最も適した、必要な答えを授けてくださいます。そして私たちが神様に全幅の信頼を置いて聞き従うならば、神様は私たちの人生に責任を持って正しい道に導いてくださいます。

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